自殺未遂失敗した25歳の壮絶過去

自殺未遂を経験するまでの壮絶な過去を綴ります。誰かの役に立てられれば幸いです。

飛び降り自殺に失敗したから過去を全て世に出そうと思う。

今週のお題「爆発」

 

私の爆発は「フラッシュバックで感情爆発した末飛び降り」

 

 

飛び降り自殺をした経緯

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簡単に説明します、

 

 

「アルコールと眠剤抗うつ剤飲んでラリって

 

現実逃避のために飛び降り自殺」

 

 

 

 

眠剤抗うつ剤7年継続使用

 

②アル中

 

③壮絶な過去

 

 

この3つが重なって

 

フラッシュバックを起こし、

 

発作的に自宅の3階から飛び降りました。

 

 

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自殺に失敗した後

 

飛び降りた先はコンクリート

 

 

 

奇跡的に

 

手と足の単純骨折、

 

全身の擦り傷、

 

軽い打撲で済みました。

 

 

 

 

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「なんで死なせてくれなかったんだろう」

 

骨折の手術が終わりまず思い浮かんだ言葉。

 

 

なんで逃げさせてくれないのだろう。

 

なんでこんなに苦しまなきゃいけないのだろう。

 

 

なんで、、、

 

 

 

 

毎晩毎晩泣きながら朝日を迎えました。

 

 

 

 

 

壮絶な過去を25年間生きてきた自分とのさよなら

 

 

術後のリハビリも終わり、

 

完治が近づいた今、

 

思いました。

 

 

「そうだ。今までの過去を供養しよ。」

 

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これからブログで綴ることは汚い自分

 

 

25年間を供養するために、

 

このブログを開設しました。

 

 

 

 

誤解の無いよう伝えておきますが、

 

このブログは自殺を企図するものでも

 

自殺を促すものでもありません。

 

 

 

同じようなつらい思いをしている人が

 

 

「私だけじゃないのか、、、」

 

 

と思えるためのもの。

 

 

 

そして私自身が過去を整理するためのもの。

 

 

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「壮絶な過去」と記している通り、

 

 

人によっては不快になる表現もあるかと思いますが

 

 

寛容な心で見守っていただけると幸いです。

 

 

次回、、、「幼少期のトラウマ」

母がパニック障害になった結果、新たに私に覆いかぶさった○○障害

人の目をまっすぐ見れないことを指摘してきた音楽の先生

高校3年生になって、面接指導を受ける機会があった。

センター利用推薦での受験を考えており、色んな先生に面接指導をしてもらった。

 

その中で、音楽教員の少し変わった先生に指導してもらったとき、

「君はどこを見ているんだい?」

と聞かれた。

何を言っているのか分からなかった。

 

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そのうちに、「お家でなんかある?」と聞かれた。

「はい、まあ。」となんとなく概要説明すると、

「家庭ぐちゃぐちゃじゃーん!」と笑われた。

 

その反応があまりにも軽くて、私にとっては嬉しいものだった。

こんな話を笑ってくれる人がいるのかと。

 

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「なぜわかったのですか?」と聞くと、

「学生の悩みって、勉強か家庭か友達関係だと思うんだよねー。君の場合この高校にいるから勉強は問題ないでしょ?友達とよくいるのも見かけるし、つまり家庭かなーって!」

と笑いながら言っていた。

 

 

 

ちなみに当時付き合っていた彼氏についても質問され、淡々と答えると、

「それって彼氏じゃないよー!中堅ハチ公じゃーん!」と言われた。

 

何か私の中で引っかかっていたものが解明されて

先生の言葉に対して自分なりに考え、納得したうえで彼氏に別れを告げた。

すっきりした。

 

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★「母のパニック障害

ある日、夜中寝ていると、1階で寝ていたはずの母がものすごい勢いで2階に駆け上がってきた。

母は父の部屋に入り、ヒステリックに何か言いながら父を叩いたり蹴ったりしていた。

 

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父がいつものように酔って暴れて、2階のトイレを詰まらせたことにより、水が溢れてきて、トイレの外まで水浸しになっていた。

 

その水が1階のトイレまで浸み込んで、母が寝ている部屋の隣にあるトイレの天井から水が滴り落ちてきている状態であった。

 

寝ていて突然水が滴り落ちる音が聞こえる恐怖と、

必死に守ってきた家が物理的に壊れてしまうという不安からヒステリックになっていたのだと考えられる。

 

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父に一通り怒りをぶつけた後、母は自室に帰り、布団にくるまって丸くなりながら、「お家壊れちゃったああああぁ、お家、お家壊れちゃうようおおぉぉ」と泣き叫んでいた。

 

近くによって背中をさすろうとしたが、「触らないで!来ないでえええぇ」というので、ただ近くにいることしかできなかった。

 

とりあえずトイレの水を拭いたり、一階トイレの水が滴り落ちているところにタオルを置いたり対処をして、泣き叫ぶ母を見守っていたのを覚えている。

 

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泣き終わると落ち着いたが、私の心は大分ざわざわしていた。

それからは、いつ母のパニックが起こるか分からないという恐怖から、ほとんど深く眠れなくなった。

 

いつでも何かあったらすぐに動いてあげなければ。

 

すぐに駆け付けられるようにしていなければ。

 

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寝ていても、雨が降り出す音で起きるようになった。

完全に不眠症だった。

 

母はその後心療内科に通いだした。

薬を服用して、気持ちを落ち着けるようにしていた。

 

心療内科から、「旦那さんを連れてきてください」と言われたこともあったそうだが、状況は大して変わらなかったことしか覚えていない。

 

 

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介護疲れで鬱になった時、母が私にかけた衝撃的な言葉

★介護疲れから鬱になった高校3年生

母方の祖父が亡くなった。

 

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母のメンタルが回復してきたころ、私はうつ状態になった。

学校に行くことも、ご飯を食べることも、トイレに行くことも、目玉を動かすことさえ面倒くさくなっていた。

毎日リビングの窓際に座って窓に寄りかかりながら、庭の木を眺めている一日だった。

 

何も思わなかった。

学校に行かなきゃとも、何かしなくては、とも。

ただただ全てが面倒くさかった。

今日を生きていることが、億劫だった。

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そうして毎日ただ木を眺め続けていたある日、母が私の隣で泣き出した。

 

ごめんねえ。

まこちゃんがこんな風になっちゃったのはお母さんのせいだよね。

こんなお母さんでごめんね。」

 

 

木を眺める娘の隣で母が泣くという、このとてもシュールな絵面が何日か続いたとき、

「この泣いている人を泣き止ませるために私は学校に行かなければならない。」

と思うようになった。

 

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やっと体が動いて、学校に復帰することができた。

クラスに行ったとき、クラス内は受験一色で、みんな休み時間も勉強しているような環境だったので、逆に馴染みやすかった。

タイミングに感謝。

 

母のおかげで学校に復帰できたし、国公立の大学にも無事に合格できた。

 

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だけど、もう少しきちんと自分に向き合って、気持ちを整理して、十分エネルギーを補充してから動き出しても良かったんじゃないかな、と今は思える。

そういう時間も大事だと思えるようになった。

 

というか、今も欲しい。

追われる生活ではなく、何かを追う生活の中で、

自分と向き合う時間をきちんと作り出してあげられる生活がしたい。

 

ほんの少し、人生をお休みする時間を定期的に作ってあげる。

 

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★鬱になる前に気付いてくれた人は保健室の先生

うつ状態になる前だったのか後だったのかは正確に覚えていないが、

「お腹が痛い」

といって保健室に行くことがよくあった。

授業中でも耐えられないほどのキリキリとした痛みで、トイレに行っても便が出るわけでもなくつらかったのを覚えている。

 

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保健室の先生に家庭生活のことを聞かれた。

まあいいかと思って、すべて話した。

 

カウンセリングを勧められた。

 

なぜかこの先生のことも、話した内容のことも、何も覚えていない。

カウンセリングに通っていたことだけは覚えているのだが。

不思議。

 

 

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それだけ当時の私にとってつらい状況で、

忘れなければ生きていけなかったのだと思う。

 

 

 

 

次回は、、、「母がパニック障害になった結果、新たに私に覆いかぶさった○○障害」

 

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高校3年で祖父が死にさらに心の闇が広がった結果…

 

ブラック企業にいるかのような生活を送った日々

高校3年生の時、母方の祖父が亡くなった。

亡くなる半年前ぐらいから、母が祖父の介護等で家を空けることが多かった

帰ってこない日も時々あった。

 

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家事は私がやらざるを得ない状況だった。

父も兄も何もやらないので、掃除洗濯ご飯すべてやっていた。

 

当時私は受験期の高校3年生で、特進クラス。

国公立大学に入って親を安心させたいという気持ちから、どんなに調子の悪い時でも、常に学年10位以内はキープしていた。

度重なる模試や定期試験の勉強も頑張っていた。

 

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部活は吹奏楽に所属していた。

祖父の介護が始まったのは、吹奏楽部が命を懸けて挑戦するコンクールの時期だった。

朝練もあり、平日も土日も遅くまで練習していた。

パートリーダーだったため、練習でも合奏でも手を抜くことはできなかった。

 

この頃の生活は今でも思い出せないほど目まぐるしかった。

 

 

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朝4時半頃起きて、シャワーを浴びる。

自分のお弁当を作りながら家族の朝ご飯を作る。

家の雨戸を開けながら家族を起こしに行く。

 

朝練に出掛ける。

授業を終えると8時近くまで部活。

部活が終わって8時半ころ帰宅すると洗濯を始めて、その間に夕飯を作る

洗濯が終わるまでに食べ終えて、洗濯物を干す。

洗濯干しが終わったら、

9時10時から受験勉強を始めて夜中の2時ころまでやって寝る。

 

 

こんな生活が18歳で半年も続いた。

 

 

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いつ寝ていたのだろうと不思議に思うが、そういえばどんなに短い休み時間でも全力で寝ていた気がする。

 

忙しすぎて、疲れたとか、辛いとかの感情は一切なかった。

 

ただ、一度だけ部活のパート練でキレたことがあった。

いつもみんなでふざけているパート練が突然うっとおしく感じた。

時間を有効に使わない仲間が許せなかった。

「練習やる気ないなら私帰っていい?」と。

いつも絶対怒らない私がキレたので固まっていたのを覚えている。

皆に対してほんとごめんと思いながらその後トイレで一人泣いて、何事もなかったかのように合奏に参加した。

 

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★ここでやっと救済の手がのびてくる

 

ある日、高校で三者面談があった。

母と私と担任の3人だった。

私の勉強状況の報告や受験に関する担任の見解などの話が終わると、担任が思わぬことを口にした。

 

「最近やつれた?」

「寝てる?」

「ご家庭で最近何かありましたか?」

 

私は何も答えられなかった。

相変わらず、母にとって1ミリでも不利になることは何も言いたくなかった。

 

母が担任の質問に答えた。

 

「最近私の父が亡くなったので、この子が家事をやってくれていますね。」

 

その時やっと自分が疲れていることを認知できたように思う。

 

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確かにその頃の写真を見ると、足と手がものすごく細いのにお腹が出ていた。

不思議な体型だったが、自分では「お腹が出ているから私はまだ太い」という固定概念を持っていた。

 

あ、そうだ。その頃あまりたくさん食べられなかった。

たくさん食べなくても、お腹がすかなかった。

なんでだろう、、、?

 

担任が気付いてくれなかったら、

おそらく何も感じることなくストレスだけが溜まっていっていた。

 

 

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高校3年の時の担任には本当に感謝している。

 

 

次回は、、、「介護疲れで鬱になった時、母が私にかけた衝撃的な言葉」

壊れてしまった信頼関係と身体の異変が心に与えた影響は…

突発性側弯症になってさらに執着した「普通であること」

中学に入る時に、「普通に来ているのにスカートの丈が左右で違う。」ということに気付き、整骨院に行った。

紹介状を渡され、専門の医者に行ったところ、突発性側弯症と診断された。

 

 

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幸い手術までは至らなかったが、中学校3年間、石膏で作ったコルセットを付けて生活するよう言われた。

コルセットは胸から腰に掛けて作られた固い性質のものであり、とても隠し通せるものではなかった。

授業の終礼でお辞儀をすると、コルセットの先端が制服の上からわかってしまって、友達に「なにそれ?」と言われることも多かった。

 

体育の授業では、毎回着替えの時に周りの子に見えないように着替えていたし、着替えをみんなと同じ速さで終わらせることが困難だった。

 

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体育の先生は、「無理しなくていいよ。少し遅刻しても大丈夫だから。」と言ってくれていたが、『みんなと同じ』が良かった。

普通であることに固執していた。

 

隠す気はなかったが、

私の病気のことを話したところで誰がうれしい気持ちになるだろう?

誰の得になるだろう?

どうにもならないし、誰もいい気持ちにならないなら話す必要もない。」

と思っていた。

 

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本当はすごく面倒くさかったし、煩わしかったし、嫌だった。

同じ病気を検索したが、あまり見つからなかったのもまた悲しかった。

なぜ私が?こんな病気に?という思いが強かった。

 

 

家庭環境の普通じゃない状況と相まって、さらに「普通」に執着するようになった

悲観的になっても仕方がないので、気持ちに蓋をしていたように思う。

 

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★信頼関係が壊れて地に落ちた心

 

中3になって、なぜか真面目になった。

受験を控えていたこともあり、「真面目の方が得だ」と思い始めた。

今思うとここの方向転換は自分でも謎のままである、、、。

 

 

そんな矢先、人生で2度目の友達の裏切りに遭う。

 

 

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友達B子が、私が好きだった1つ上の先輩と

隠れて付き合っていたという。

一番仲の良かった子なので、私は何も知らずにあけすけに話していた。

 

 

先輩が卒業する日に、先輩に

「第二ボタンください」

と言うと、

「第二ボタンはあげたい子がいるから第三ボタンでいい?」

といわれ、高望みもしていなかったのでうれしい気持ちでもらった。

 

後日、他の友達C子.D子から、

「本当はね、第二ボタン、B子がもらったんだよ。聞いてるこっちがうんざりするぐらい嬉しそうに自慢してきたよ。」

と聞いた。

素直にショックだった。

何も言ってくれなかったこと、陰で私のことを嘲笑っていたこと。

 

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正直にその子に

「話がしたい」

と言った。

 

結局電話で話をした。

ショックだった件について話してくれた友達C子.D子からは、

「私たちが言ったってB子に言わないでね」

と言われていたので、名前は伏せて事実を確認した。

 

今思えば倫理的配慮をしていた私偉いな。(⌒∇⌒)

 

電話では、B子が泣いて謝ってくれたので一応許したかったが、心の整理が追い付かなかったので、少し距離を置きたいとだけ伝えた。

 

 

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ここで想像もできない緊急事態が起こる、、、。

 

 

次の日学校に行くと、私一人だけハブられていた。

周りの雰囲気が昨日とは全く違った。

 

 

どうやら私を裏切ったB子は、私との電話が終わった後、泣きながら他の男の子に電話をしてあることないこと言っていたらしい。

その電話を受けた男の子がまた影響力のある男の子だったので、噂が一瞬で広まったと。

 

噂の内容がこちら⇓

「とりあえずまこちゃんは最低。

「一番仲の良い子のB子に暴言はいて泣かせた。」

 

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メールでもいろんな人から「死ね」とか「謝れ」とかたくさん言われた。

 

さすがにここまで噂が広まってしまっては打つ手なしだと判断し、私は黙秘し続けた

「私が真実を知っているから大丈夫。」

必死でそう思っていた。

 

 

 

だた一番しんどかったのは、私を裏切った彼女が泣きながら電話したのが、当時私の好きな男の子であったことだった。

好きな人から毎日

 

「死ね」

「お前が悪い」

「お前はゴミだ」

 

等、メールが来るのはさすがに堪えた。

 

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つらかった。

誰も味方がいなくて、多分今から全てを話しても誰も信じてくれないだろうという状況が。

 

ハブにされて3か月くらいたった頃、

一人だけ、「まこちゃんはそんなことしないよね?」と言ってくれた女の子がいた。

素直に嬉しくて、すべて話した。

 

 

その子から、

「とりあえず、好きな人からそんなメールが来るのはつらいだろうから、私がその男の子に全部話してあげるよ!」

と言われた。

 

私は好きな人を信頼している友達に取られた惨めさと、もうひっくり返せない状況を考えて、「あなたさえ分かっていてくれればそれでいいよ」と伝えた。

 

 

 

 

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次回は、、、「高校3年で祖父が死にさらに心の闇が広がった結果…

A子のいじめになりふり構わない攻防を繰り返したら体に驚きの結果がでた

★異性関係を利用していじめた中学生時代

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中学1年生。

以前から仲の良かった幼馴染がいた。

クラスのA子が私と幼馴染のところに入ってきて3人グループになった。

そのうち、A子と私で幼馴染の取り合いが始まった。

 

 

 

幼馴染は断ることができないタイプで、一見サバサバに見えてとてもナイーブな子であったため、本当は私ではなくその子といたかったのかもしれない。

ただ、「私はあなたといたいのに、、、」と言ってくれたことがあったので、その言葉を信じていた。

 

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次第にA子の私に対するいやがらせがエスカレートしてきた。

 

「(私の名前)と友達にならない方がいいよ」

「自分の顔可愛いと思ってんのかよ」

 

などなど、あからさまに攻撃されていた。

 

 

 

だいぶいじめられたが、いじめあってもいた。

 

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負けず嫌いでいじめられているのが気に食わなかった私は、A子の好きな男子を、察知してその男子と仲良くなった。

幸い仲良くなる技術に長けていたので、「いじめられてかわいそうな私」を演じて男子陣を味方につけた。

 

 

 

大変姑息な手だが、女子全員がA子についてしまったので致し方なかった。

さらに、A子好きになった男子が変わるごとに、私はその男子と仲良くなったり、付き合ったりしていた。

 

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男子の気持ちなぞどうでもよかった。

私のプライドが保たれればそれで良かった。

 

 

中学生特有の、付き合っている人は勝ち組という価値観から、勝ち組になりたかったのかもしれない。

 

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この頃クラスには携帯を保持している生徒が多く、私は父の携帯を使って友達とやり取りをしていた。 

 

母が私と友達の攻撃的な言葉を使ったやり取りを見て、「A子がこのメール見たらどう思うか考えている?」と言及したこともあった。

 

私は「勝手にメール見ないで。」と反発した。 

 

 

 

 

★「30分歩いたら死ぬ」と言われたストレス性全身湿疹

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中学2年生の頃、全身に湿疹が出来た。

歩いて登下校をしたら、急に倒れる可能性もあると言われた。

塗り薬を服用していたが、授業中もかゆくて耐えられないほどであった。

 

 

それでも毎日学校は行った。周りの子たちに、自分のいないときに悪口を言われるのが怖かった。

何よりもその機会を減らしておきたくて、登校していた。

 

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新採の担任に「大丈夫か?心配なんだよ。」と言われたこともあった。

弱音を吐きたくないというプライドからか、「何が?」とだけ返した。

とにかく何もかもがうざかった。

 

 

 

 

次回、、、「普通じゃない身体と友人関係による信頼の欠如」

毒担任に人格否定されて母をかばった小学校時代

★毒担任による頭ごなしの批判

 

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小学5年生の時は、担任の先生と相性が悪く、反発的な行動が増えた。

先生は頭ごなしに私のことを批判してきた。

ほかの先生も含め、誰一人として、「何かあった?お家で眠れていないのかな」とは聞いてくれなかった。

行動面のみを見て、ただ叱る。

 

 

 

「あの行為はだめだったよな、わかるか?」

わたしは訳が分からずに何も応えず、ただ泣いていた。

 

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ようやく自分の家庭が普通ではないことに気づかざるを得なくなってきた。

自分の家庭への怒りや悲しみを、誰にも言えないことがつらかった。

言ってはいけないことだと思っていた。

 

ちなみに私は担任からの個別指導の多さにうんざりしていたが、

周りの子からは、あの子だけ先生に気にいられている。気にかけてもらっている。と思われていたらしい。

 

 

 

小学6年生、褒めるのが上手な先生が担任になった。

 

 

その先生は私のことをほめちぎってくれたし、学力も認めてくれたため、成績もものすごく良くなって、問題行動もある程度落ち着いた。

 

クラス内は派手な子が多く、意見をはっきりと言える子が多かったため、おしゃべりで攻撃性の高い私には居心地が良く感じられたのかもしれない。

 

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★お母さんに対する周りからの評価を気にする毎日

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お母さんを守りたかった。

お母さんが学校から否定されること、親戚から責められること、祖母から心無い言葉を言われる機会を少しでも減らしたかった。

 

父は母によく言っていた。

「お前は親戚中みんなから嫌われている。」

 

 

母は私によく言っていた。

「私がこんなんだからだめなんだよね。ごめんねこんなお母さんで。お母さんだめだね。」

 

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私がいい子になれば、お母さんが誰かに責められることなく、褒めてもらえるだろうと思った。

お母さんのために、いい子でいなければならないと思った。

義務というよりも、私の願望だったと思う。

 

みんな聞いて、お母さんこんなに頑張っているんだよ。

もうこれ以上お母さんのこと責めないであげて。

 

 

 

 

お母さん壊れちゃうよ。

 

 

 

 

 

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次回は、、、「いじめに対するなりふり構わない攻防」

DVが原因で友達関係が崩れ小4で始まったリストカット

★友達に対する攻撃(支配欲・優越感)

 

 

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一番仲がいい子からの裏切り。

 

ある日先生に呼ばれて、「あの子はお前が怖いから一緒にいると言っていたぞ」と言われた。

 

 

確かにその子がビビっている姿を見るのが何とも言えない優越感や独占欲、支配欲で満たされていたので、実際そうだったのだと思う。相当攻撃性が顕著に表れていた。

しかし、本当に怖がっているとは思っていなかったので、当時の私にはショックであった。

 

自分の思い通りになる人間が欲しかった。

あと、自分と同じように苦しむ人間を見たかった。

 

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また、他のクラスの子と「〇〇をいじめよう。いじめ計画を立てよう」と相談していたこともあった。

楽しくてしょうがなかった。

 

 

相手が顔を歪める瞬間がたまらない快感だった。

 

 

 

精神的に追い込み、苦しい思いを味わわせたかった。

 

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★家庭崩壊から始まったリストカット自傷行為

 

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幼少期から、怒られたり悔しかったりすると、自傷行為を起こす癖があった。

舌を噛んで血が出たこともあった。

指に爪を食い込ませて、15年ほど経った今でも消えない跡がある。

 

 

小学校4年生頃からリストカットが始まる。

引き金は毎回両親の喧嘩であった。

 

 

 

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自分自身が怒られた時や、責められたときにリストカットをすることはなかった。

自分にはどうしようもない大きな問題を、抱えきれなくて痛みで何もかも忘れたかった。

 

 

 

 

「これは普通の家庭にあること」

みんなこんな苦しい思いをしながら頑張って生きているんだ

カンボジアの子に比べれば、雨風しのげる屋根と壁があるだけでありがたいと思わなければならない。」

「お母さんがあんなにつらそうなのに、お父さんはなんでそんなに悪口を浴びせ続けられるの?」

「私には何もできない、お母さんごめんね。」

 

 

そんな思いが頭の中にぱんぱんに詰まっていた。

 

 

 

あと、血を見るのが好きだった。

流れていく血を見て、「ああ、私頑張って生きているなあ」という実感を得ていた。

 

 

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お母さんもお父さんも、喧嘩ばっかりしていたから、私の存在覚えていてくれているかな?と不安になることはよくあった

というか、常にそうだった。

 

私たち子どもは、彼らの世界に存在していないかのようだった。

もっと構ってほしかった。

 

 

ただ、彼らが自分たちのことに必死になって生きているのも理解せざるを得なかった。

お父さんも頑張っている。

お母さんも頑張っている。

誰も悪くない。

 

 

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だけど。

私のことも見て、私ここにいるよ。

私ちゃんと存在しているよね?

私生きているよね?

まだ死んでいないよね?

 

私は誰の世界で誰と共に生きているのか、わからなかった。

誰も私のことを必要としていると思えなかった。

 

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というか、存在していていいのか不安で仕方なかった。

 

 

 

 

 

次回は、、、「毒担任による絶望的な指導」