自殺未遂失敗した25歳の壮絶過去

自殺未遂を経験するまでの壮絶な過去を綴ります。誰かの役に立てられれば幸いです。

【自己紹介】鬱病だった私が26歳で心理カウンセラーになるまでのお話

ブログを書いてみようと思ったのですが、なんのテーマも思いつかないので、自己紹介をします。

 

26歳で心理カウンセラーになりました。

 

1番ラフな私の姿です。

twitter.com

 

ちなみにペットもいっぱいいます。

www.youtube.com

 

今までの人生を全部書いてしまうと、あまりにも長くなるので、心理カウンセラーに関連することメインでざっくり書きたいと思います。

 

 

ざっくりって言ったのに目次だけで膨大(;'∀')

 

■こんな人に読んでほしい

  • 私の自己紹介に付き合ってくれる優しい人
  • 人生十分頑張ってきたから「もういっかな」と感じている人
  • カウンセリングって意味あるの?って人
  • 私にカウンセリングをしてほしいけどどんな人か知っておきたい人

 

■まずは人生をざっくり

幼稚園 父親の起こした交通事故による家庭崩壊

小学校 家庭内DVの目撃

中学校 特定の女子軍団からのいじめ

高校  家事・部活・受験による鬱状態不登校

大学  父との死別

大学院 うつ病が発覚

仕事  教員の業務過多で双極性障害

    セルフカウンセリングに興味をもつ

    カウンセラーの資格を取得

今   大人を対象に心理カウンセリングを実施

 

 

 

 

 

■幼稚園時代

父親の起こした交通事故による家庭崩壊

私の逆境的体験はここから始まります。

 

父親が裁判になる大きな事故を起こしました。

当時の私はこのことを覚えているわけもなく、父との死別の後、母から聞かされることになります。

 

父は事故の後、アルコール中毒になりました。

母はそんな父を支えようと必死だったそうです。

 

母の目は子どもには向いていなかったと記憶しています。

 

アルコール中毒になった父親

母曰く、仕事にもお酒を飲んで行っていたのではないか。とのことでした。

父のアルコール依存はかなりひどかったと思います。

 

家の玄関やリビングで、暴れて暴言を吐いてその場で寝ている父親の姿が、今も脳裏に焼き付いています。

 

特に母親に対する暴言がひどかったです。

「おいデブ!豚!」

「だからお前はみんなから嫌われるんだ」

家の中はこんな暴言の嵐でした。

 

ヒステリックな母親

ただ、母親も負けていません。

父親と言い合いになると、決まって部屋にこもって泣き叫びます。

 

我が家は暴言と泣き声で溢れていました。

 

母親は過敏なところがあり、自分の予定通りに行かないとパニックになることがよくありました。

 

私は母親の気分を害さないように日々を生き抜いていました。

 

 

■小学校時代

DVの目撃

私が幼稚園の時だけでなく、小学校になってもDVは続いていました。

 

低学年の頃の私は

「お友達のみんなもこんな家庭なんだろうな」

「みんな普通に生きているように見せることが出来ていてすごいな」

と思っていました。

 

中学年になった頃、お友達の家に行くことが多くなりました。

そこで「あ、うちの両親普通じゃないんだ…」と気付きます。

 

高学年になった頃には母親に「辛かったらお父さんと別れてもいいよ」と伝えていました。

 

それでも父親と一緒に居るという選択をする母親に、私はずっと疑問を抱いていました。

 

リストカットの開始

ここでリストカットが始まります。

 

最初は「包丁で手首を切ればこの苦しい状況からいなくなれるのかな…」と思って始めました。

それが段々と”胸のあたりが黒くモヤモヤしてきたら切ればいいや”というように、私のストレス対処法になっていきました。

 

リストカットをしていた理由は2つあったように思います。

 

 

1つ目は「わたしは生きている」と実感できるから。

 

喧嘩に必死になっている両親の目は私には向きません。

「あれ?私って今ここにいるよね…?」と不安になることが度々ありました。

 

そんな時に、自分の血を見ることで安心できたのです。

 

2つ目は「痛みで黒いモヤモヤを忘れられるから」。

 

痛みほど自分の脳みそをパンパンにしてくれるものは無かったのです。

 

リストカットが始まってからは、筆箱やランドセルにカッターが入っていないと、落ち着かない状態になっていました。

 

■中学校時代

特定の女子軍団からのいじめ

ある日学校に行ったら突然始まっていたのです。

今思えば私の言動に問題があった部分もあると思います。

 

ただ、中学生の私にはそんなことがわかりませんでした。

目の前で悪口を言われて味方も誰一人いない日々。

 

部活は一生懸命やっていましたが、授業は段々サボるようになっていきました。

クラスにもクラス外にも話す人はいないし、学校に行く意味も分からなくなっていました。

 

この時期からガラの良くない先輩や同級生と、つるむようになります。

成績も落ちるし、問題行動も多くて、毎週先生に呼び出される日々。

 

登校で歩けないほどの体調不良

これもある日突然のことでした。

全身湿疹が出ました。

 

急いで病院に行くと、

「体育は絶対やっちゃダメ。」

「登校で歩いたら死ぬと思いなさい。」

「学校は必ず車の送り迎えで。」

と言われました。

 

その時に「あ、やっと死ねる…?」とふと頭をよぎったのは明確に覚えています。

 

いじめや家庭のストレスも溜まっていたのでしょう。

それが体にまで影響して体調を崩すことが多くなりました。

 

■家事・部活・受験による鬱状態不登校

アンバランスな中学時代を過ごした私は、地元の進学校に進みます。

進学校の特別クラスだったので、校内で上位20%に入るのは当たり前でした。

 

部活もある程度、実績のある学校だったので朝練から夜練まで必死でした。

 

そんな時、母方の祖父が倒れます。

母は祖父の介護で家を頻繁に空けるようになりました。

 

父はアルコール中毒

料理・掃除・洗濯・父の尻拭い、これら全部私の分担になりました。

 

そんな時、転機が訪れます。

3者面談で担任の先生が「最近この子やつれましたよね?」と母親に言ってくれたのです。

 

そこで初めて母親の目がこちらに向いたのを覚えています。

その後「私つかれてたんだ…」と認識してからは、トイレに行くのも布団から起き上がるのもおっくうになって、当然学校にも行けなくなりました。

 

母は、ぼーっと庭を眺める私の横でずっと泣いていました。

「あなたがこんなんなっちゃったのは私のせいだよねぇ…」

「ごめんね、ごめんねぇ…」

と言っていたのは何となく覚えています。

 

しばらくして私は担任の先生への感謝を感じ始め、学校の先生を目指そうと決めます。

 

■高校時代

母のパニック障害

学校の先生を目指すと決めたからといって、家庭の状態が変化することはありません。

 

父のアルコール中毒は、時が経つにつれて段々ひどくなっていました。

 

ある日、父がトイレにお酒のパックを流してトイレを詰まらせました。

トイレ付近の床が水浸しになったことに気づいた母が激怒。

母はひとしきり父に暴言を吐いた後、布団にこもって何かぶつぶつと言いながら泣いていました。

 

「おうち壊れちゃう…壊れちゃったよぉ…」

「あぁー…私のせいだよぉ…」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」

 

高校生の私にとってはあまりにショックな絵図でした。

母の肩をさすろうとしても、過敏になっている母は私の手を振り払いました。

 

1時間弱、泣き続ける母から少し遠い所で見守り続けるしか、なすすべはありませんでした。

 

それからは私はいつ父が何を起こしてもフォローできるように、母がパニックになっても見守れるように、と思うようになり、雨の音でも起きるようになりました。

 

父との死別

大学に入ってすぐ、父が肝硬変で亡くなりました。

最後に会ったときは私のことが分からなくなっていましたが、看取ることは出来ました。

 

ただ、父が亡くなって私が思ったことはひとつ。

「やっと解放される…。」

 

不謹慎だと思われるかもしれませんが、もう母も私も疲弊していました。

やっと心配の種が一つ無くなってくれるなぁ…と考えながらの葬式でした。

 

父との関係回復(死後ですが)については、また詳しく書こうと思います。

今は素直に「悲しいな。」と思えています。

 

■大学時代

過度なバイト量で過食嘔吐

父が亡くなって、母もある程度回復してきたあたりで、私は一人暮らしをする決心をします。

当時は、実家にいる時間帯だけ突発性難聴になっていたので「もう十分頑張ったしこんなに身体にも症状が出ているなら解放されたい」という思いが強くありました。

 

私は、「お金は一切要らないから」と言って、すがりつく母を置いて家を出ました。

 

結果、生活費と大学の授業料に追い込まれることになります。

休日と夜は結婚式場と飲食店でアルバイトをし、昼は大学の授業に出る生活でした。

 

あまりに過酷なスケジュールにストレスは溜まるばかりでした。

 

気付いたら、過食嘔吐が始まっていました。

アルバイトの帰りにコンビニに寄って、3000円分ぐらいのお弁当屋お菓子を買い漁って、食べて、トイレに行って、口に指を突っ込んで吐く。

これが習慣になっていました。

 

生活リズムが崩れた結果の不眠症

アルバイト三昧の日々を過ごしていたら、眠くて眠くてしょうがないのに眠れなくなっていました。

「さすがにこのままじゃ生活が成り立たない」と思い、心療内科に行きました。

 

心療内科では

不眠症ですね」

「幼少期から深く眠る習慣がなかったのかもしれないねぇ」

と言われて睡眠薬と漢方を出されました。

 

これで寝れるようになるならなんでもいいや、という気持ちで日々に追われていたのでこのころの記憶はあまりありません…。

 

■大学院時代

うつ病が発覚

大学では教員免許を取り、大学院では子どもの心理学を研究していました。

研究自体は自分にも当てはまることがあるなぁという発見が多かったり、学校の先生になったら生かせるかも!という期待感があって楽しく過ごしていました。

 

しかし、なぜかは分からないのですが、突然家を出れなくなってしまいました。

布団を出るのもトイレに行くのもおっくう。

あまりにも出来なさすぎて、こんな表を作ったこともあります。

 

【起きたらやること】

①布団を出る

②歯磨きをする

③髪の毛を整える …

 

そしてこの表を作ったことが、見事に逆効果でした。

「こんなに普通のこともできない私はなんてだめなんだろう…」と負のスパイラルにハマってしまいました。

 

にっちもさっちもいかなくなって、心療内科で相談したところ「うつ病です」と伝えられました。

 

それからはぎりぎり休学しない程度に単位を取って、自力で回復しました。

 

虐待を受けた子どもの心理を研究

DVも虐待に含まれることを知り、虐待を受けた子どもの心理を知りたくて大学院に進みました。

と同時に、学校の先生になった時に、虐待を受けている子どもにどう接すればよいのか学びたかったという気持ちもありました。

 

研究では、虐待を受けた子どもがいる施設の教員へのインタビューを行っていました。

 

その結果、トラウマをもつ人に接するときの心構えとして”トラウマインフォームドケア”の視点が重要なのではないかと感じました。

 

”トラウマインフォームドケア”とは、支援する多くの人たちがトラウマに関する知識や対応を身につけ、普段支援している人たちに「トラウマがあるかもしれない」という観点をもって対応する支援の枠組みのことです。

 

虐待を受けていようが受けていなかろうが、この「トラウマがあるかもしれない」という視点が大事だと気づくことが出来ました。

 

自分自身の幼少期の心理状況についても、大学院である程度理解することが出来たように思います。

 

■仕事

教員の業務過多で双極性障害

ついに念願の学校の先生になりました。

関わりの合った人たち全員から「学校の先生は大変だよ」と言われていたので、覚悟はしていたのですが、中々業務に慣れることが出来ませんでした。

 

元々、

「虐待を受けている子がいたら気付いてあげたい」

「発達の子も過ごしやすい環境を作りたい」

「トラウマを抱えている子どもには安全な場を提供したい」

という思いが強すぎたので、なにもかも完璧にやろうとして基礎的な業務がおろそかになってしまっていたのです。

 

そして段々と遅刻が多くなり、欠席することも増えてきて、休職に至りました。

心療内科には通っていたので「仕事に行けてないです」と相談したところ、今度は「双極性障害ですね」と伝えられました。

 

セルフカウンセリングに興味をもつ

今の自分の心理状況を把握するために、自分で自分に行う”セルフカウンセリング”に興味を持ち始めます。

 

休職してからずっと寝たきりでしたが、少し動けるようになってきてから、カウンセリングを受けたいなーと漠然と思っていました。

 

そしてタイミングよく、久々に電話した後輩から「認知行動療法いいっすよ」と言われました。

 

そこで、認知行動療法の本を読んでみて自分で実践してみました。

 

最初は「にんちってなに?」というのが分からず、つまずいてしまいました。

 

認知を理解するために、大学院時代の恩師(私は勝手に恩師だと思っています)に指導してもらいながら、認知行動療法を使うことが出来るようになってきました。

 

認知行動療法とは、困っている時の状況や感情を把握し、自分の考え方のクセを見つけていく方法です。

 

それからは基本的に、悩んだら認知行動療法の手法でセルフカウンセリングをしています。

 

カウンセリングの資格を取得

通信教材で基礎的な部分を勉強し、心理カウンセラーの資格を取得しました。

 

その後は学会や研修会に参加したり、自分で文献を読んだりして学んでいます。

 

認知行動療法以外にも使える引き出しを増やしたいと思い、様々な手法を身に着けてきました。

 

■今

大人を対象に心理カウンセリングを実施

現在は、成人した方を中心にカウンセリング業務をおこなっています。

 

相談者さんは問題解決したい方や、ただ話を聴いてほしい方など様々な方がいらっしゃいます。

 

基本的な私のスタンスは”共に歩む”です。

 

相談者さんに孤独感を感じてほしくない。

隣にいるよって安心してほしい。

 

だから、私のカウンセリングでは一緒に考えたり、一緒に作業したりして進めています。

 

もし私のカウンセリングに興味があればサイトも一旦見てみてください

www.saito-counseling.com

 

 

■最後に

ここまで読んでくれてありがとうございます。

私の人生を綴らせていただいたことで、忘れていた感情を思い出したりすることが出来ました。

 

今回は「なんか家庭が大変でカウンセラーになった人」と覚えてもらえたら嬉しいです。

 

ちなみにうちのニワトリは私が困っていたり泣いていると近寄ってきてくれます。

かわいいです。

 

 

父親に思ったことは「死んでくれてよかった」

 

1.父の死はなぜ?

私が5歳の時、父は交通事故を起こして相手の方を死なせてしまった。

 

その罪悪感からか、父はアルコール中毒になる。

 

もちろんアルコール中毒には弊害が。

肝臓がんだったのだ。

 

しかし私は知らなかった。

 

私が「お酒飲んでいいの?」と聞くと、

父は決まって「医者は良いって言った」と答えていたので

 

私は父親が何の病気かも知らずに

余命宣告されるときに知ったのである。

 

 

私が大学生時代にバイトに励んでいた時、突然母から電話が来た。

当時の電話は細かく覚えている。

 

母「まこちゃん、まこちゃん、お父さん入院だって」

私「入院?肝臓?」

母「どうしよう、まこちゃん!」

私「知らないよ。私今からバイトだから。じゃあね」

母「待ってまこちゃん!…お医者さんからご家族にお話がって…」

私「…ほう。わかった、一旦病院向かう。」

 

2.医者からの余命宣告

病院に着くと、何本ものチューブに繋がれてベッドに横たわる父親がいた。

 

母に様子を聞くと、肝臓がんだという。

 

母が父に語り掛けるように「お父さん、まこちゃんが来てくれたわよ」というと、父は意識朦朧の中「まこ、、、?だれ、、、?」と呟いた。

 

 

私は無駄に落ち着いていて、

 

「あぁ、これはもうだめそうだな」とか

「葬式代うちにあんのかな」とか

「介護ってなったら誰が面倒みるんだろうな」とか

 

頭の中で考えていた。

 

 

しばらくすると医者から家族が呼ばれた。

診察室に行くと、医者から衝撃の言葉を伝えられる。

 

 

医者「もって2~3日かと思います。」

 

 

その瞬間椅子に座っていた母が椅子から崩れ落ちた。

兄は茫然としていて頼りにならないので私が抱きかかえた。

 

よろよろと歩く母を支えながら、ロビーに行き家族会議が行われた。

(とはいえ母は泣いていてどうしようもないので私が話を進めるしかなかった)

 

親族一同や職場への連絡を行い、

皆様に最期のお別れをしていただいたあと。

 

医者の言う通り翌日、父は息を引き取った

 

 

3.「死んでくれてよかった」

悲しいことに、死んだ父親に私が思ったことはこの一言だった。

 

あまりにも家族に迷惑をかけ、母親に暴力をふるい、近所からも白い目で見られる状況をつくったこの男に何の情をかければよいのか、、、

 

何の感情もわかなかった。

 

「これでやっと解放される」

 

そんなことを思いながら息を引き取った父を眺めていた。

 

母や兄、周りの親戚たちがなぜ泣いているのか、私には1%も分からなかった。

父のために泣いているのか?

自分のために泣いているのか?

その場の雰囲気に合わせて泣いているのか?

全く分からず自分だけおかしいのだろうなと思うしかなかった。

 

だけどやっぱりどうしても、

「ありがとう」や「ごめんね」は私の心の中には一切なかった。

 

「つらい」でも「悲しい」でもなく「やっと自分の人生を生きられる」という希望に満ち満ちていたのである。

 

 

少し違うとは思うが、介護疲れの人々が極限状態まで介護を行い、被介護者を亡くしたときに感じるものと近いのかもしれないな、と思う。

 

実際、我が家での父の尻拭いは介護に近かった気がする。

酔って家中でおしっこをする父親。

暴言を吐きながら外で寝ている父親。

酒やたばこのごみを近所に捨ててくる父親。

これらの尻拭いをしていたのは、母と私だった。

 

そんな父親が死んだところで娘は何を思えばよかったのだろうか。

分かる人がいるなら教えてほしい。

 

6歳のころから家族に気を遣い、

散々な父親の尻拭いと精神疾患の母親の顔色をうかがう事ばかりしてきた。

その片方がやっと消えたのだ。

 

これは私にとってはとんでもなくめでたいたいことだった。

 

父親が死んで世界が明るく見えたのだから。

 

とまあこんな経緯で「死んでくれてよかった」と思ったのだけど、

実はその後色々、本当に色々あって死んだ父親と和解することになる。

 

そのお話はまた今度。

 



 

次回:死んだ父親との和解

大学受験を終えてレールに乗った瞬間に生じたお金問題

こんにちは。 お酒と人間が大好きな大山です。

 

★大学受験を終えて大学に入学

憧れの教員になるために大学の教育学部に入学。

無事に入学して、やっと親族や親から認めてもらえると思っていた。

 

入学が決まって母から言われた衝撃的な言葉があった

 

「うち、大学行かせられるお金ないよ。」

 

あまりの突然さに声が出なかった。

兄は私立の大学に行っているのに、、、。

 

頭の中はハテナでいっぱいだった。

 

高校生で受験勉強をしながら学校に許可を取り

アルバイトで稼ぎながら大学の入学金を手にした。

 

奨学金という手もあったが、

兄が親族から奨学金を借りることはできなかった。

 

兄が留年したおかげで親族には保証人にもなってもらえなかった。

 

じゃあどうするべきか。

教員になるために大学に行きながら働くしかない。

 

最初は居酒屋のバイトをしていた。

なんとか授業料は賄えるようになってきていたが、

生活リズムはどんどん昼夜逆転し、大学も欠席がちに。

 

 

「なんで私は勉強するために大学に来たのにバイトしているんだろう」

 

そこでたまたま先輩にバイトに誘われる。

 

「いやだったらやめてもいいから!とりあえず私辞めるから穴埋めお願いできない?」

 

時給1200円で好条件だったので断る理由もないかと思い、お店に行ってみた。

 

 

実際にバイト先に行ってみたらスナックだったのだ。

しかし会員制で労働時間も17時~22時

まあ怪しくないか。と思い働き始める。

 

運がよかったのか、ママが母親のように面倒を見てくれた。

 

ママとは一回だけ大喧嘩して大泣きしたが、

人とのかかわり方や話し方、服装やお酒の飲み方までとても丁寧に教えてもらった。

 

 

 

 

さらに大学院に進む生活費と授業料を稼ぐために

スナックと飲食店で1年間働く。

 

お金をきっちり貯めて夜からは足を洗うことになる。

 

★テニスサークルに入るがお金の価値観が合わずに遠征費に苦しむ

元々興味があったテニスサークルの勧誘を受けて、友達と入る。

 

サークルでは遠征に度々行っていたが、

毎回遠征費は交通費等で5000円ほど回収されていた。

 

5000円稼ぐのにバイトを増やさなくてはいけなくなって、ある時遠征を断った。

 

サークルの先輩や同期からは総攻撃。

 

「そんなにお金ないの?」

 

まあ実家から毎月15万円仕送りをもらって

家賃も払ってもらっているような大学生たちが大半だったので、

 

私の「明日のご飯も食べられないかもしれない」という感覚は

最後まで分かってもらえなかった。

 

そしてもう一つ、私がお金に困窮した理由があった。

 

★母親との一人暮らし騒動

母親に「お金は一銭も出さなくていいから一人暮らしをさせてほしい。」と言って話し合いをした。

 

母親は驚くほどのヒステリーを起こす。

 

「あんたはどうせ私のことを捨てていくんだ!あんたなんか子どもじゃない!」

「そんなに私が邪魔か!」

「私のことを支えてくれるって言った言葉を信じていたのに!」

 

あまりにも心無い言葉にびっくりした。

悲しくもあった。

 

 

私の心は安全だと思えない家で過ごすことがもう耐えられなかったので、

一刻も早く家を出たかった。

 

私は家にいると片耳が聞こえなくなるまでに

身体症状にも異常が出ていた。

 

しかし、母はパニック障害を持っており

私が家を出ることで自殺未遂すら起こしかねない様子だった。

 

なので、母の同意を得ずに家を出る選択肢は考えられなかった。

 

今思うと相当な共依存関係だったと思う。

 

結果的に母を説得して私は家を出た。

 

心の安全は担保されたが、お金の問題は留まるところを知らなかった。

 

 

 

次回:父の死

 

 

 

まずあなたに読んでほしい自己紹介

こんにちは。

お酒と人間が大好きな大山です。

 

今回は私の自己紹介です。

ブログって、どんな人が書いているのか分からないと、

読む気が失せますよね、分かります。笑

 

そこで、今回は私の今までの人生について

一気見できる記事を書こうと思っています。

 

 

現在25歳女性。

幼少期被虐待経験あり、夜職経験あり、うつ病闘病中。

 

人生山あり谷ありとはよく言うけれど、

私には一度だけどん底を経験したことがありました。

 

たった一度の絶望は自殺に失敗した時。

「なんで死なせてくれなかったんだろう」

素直にそう思っていました。

 

 

まずは自殺について語るために欠かせない、私の幼少期について遡っていきます。

親から虐待を受けていて、実兄からは性的暴力を受けていました。

不眠が続き、学校でも問題行動が多い子どもでした。

 

小中学校では、成績は良いものの態度が悪く、呼び出されることも数えきれないほどありました。

 

高校時代は、母親がパニック障害になったことで、家事に追われる毎日。

不登校を経験して、学校の先生を目指すことになります。

 

国公立大学に入学し、教員免許を取得。

大学生の時に長年アルコール中毒だった父親が亡くなります。

 

実家に対して堪忍袋の緒が切れて一人暮らしを始めました。

金銭的問題から、夜職に飛び込んで稼ぎ続ける毎日。

精神的不安定から、セックス中毒にもなりました。

 

その後大学院に進み、心理学を研究。

 

大学院卒業後、夢だった教員になります。

教育担当の教員からのパワハラにより、社会人半年で双極性障害に。

 

休職して半年後、人生で一番の絶望が訪れます。

教員だった時のことを思い出して、突発的に自宅のマンションから飛び降り。

ODした状態で飲酒し、意識が朦朧とした状態でした。

 

「今25歳で、こんな人生があと何十年も続くならもういいかな。

十分頑張ったし、楽しかったし、どこか遠くに飛んでいきたいな。」

 

そんなことを思いながら、マンションの階段から空を眺めていました。

ふと真下の駐車場が目に入って、そのまま気づいたらコンクリートの上にいたのです。

身体中が痛くて動けませんでした。

 

手術が終わって術後の痛みの中、

「なんで死なせてくれなかったんだろう。」

「まだ頑張らないといけないの」

ふわふわした気持ちのまま遠くに行くことが出来なかったことに対して、

安堵の気持ちと後悔の気持ちと絶望と、

何とも言えない真っ黒な海の中にいるような感覚でした。

 

自殺に失敗した後、痛みがなくなってきて、

身体が健康になるにつれて、自分自身の特性とやっと向き合い始めることになります。

人に気を遣いすぎること、愛着に問題があること、自我が強いこと。

色んな自分の一面に気付くことなりました。

 

休職して半年後、

社会人として生きることに対して、少しずつ希望を持ち始めました。

教育とは全く違う畑の仕事をしていく中で、

仕事に対して向き合い始めます。

 

様々な逆境体験を通して、

「本当に自分を大切にした生き方を実現したい」

と思えるようになりました。

 

心臓, 愛, ピンク, 友情, バレンタインの日, 日にち, ハグ, ハッピー

 

 

同じような苦しい思いをしている人に届いてほしい。

一人じゃないよって。

そんな思いを込めて、このブログを綴っていきたいと思います。

母がパニック障害になった結果、新たに私に覆いかぶさった○○障害

人の目をまっすぐ見れないことを指摘してきた音楽の先生

高校3年生になって、面接指導を受ける機会があった。

センター利用推薦での受験を考えており、色んな先生に面接指導をしてもらった。

 

その中で、音楽教員の少し変わった先生に指導してもらったとき、

「君はどこを見ているんだい?」

と聞かれた。

何を言っているのか分からなかった。

 

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そのうちに、「お家でなんかある?」と聞かれた。

「はい、まあ。」となんとなく概要説明すると、

「家庭ぐちゃぐちゃじゃーん!」と笑われた。

 

その反応があまりにも軽くて、私にとっては嬉しいものだった。

こんな話を笑ってくれる人がいるのかと。

 

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「なぜわかったのですか?」と聞くと、

「学生の悩みって、勉強か家庭か友達関係だと思うんだよねー。君の場合この高校にいるから勉強は問題ないでしょ?友達とよくいるのも見かけるし、つまり家庭かなーって!」

と笑いながら言っていた。

 

 

 

ちなみに当時付き合っていた彼氏についても質問され、淡々と答えると、

「それって彼氏じゃないよー!中堅ハチ公じゃーん!」と言われた。

 

何か私の中で引っかかっていたものが解明されて

先生の言葉に対して自分なりに考え、納得したうえで彼氏に別れを告げた。

すっきりした。

 

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★「母のパニック障害

ある日、夜中寝ていると、1階で寝ていたはずの母がものすごい勢いで2階に駆け上がってきた。

母は父の部屋に入り、ヒステリックに何か言いながら父を叩いたり蹴ったりしていた。

 

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父がいつものように酔って暴れて、2階のトイレを詰まらせたことにより、水が溢れてきて、トイレの外まで水浸しになっていた。

 

その水が1階のトイレまで浸み込んで、母が寝ている部屋の隣にあるトイレの天井から水が滴り落ちてきている状態であった。

 

寝ていて突然水が滴り落ちる音が聞こえる恐怖と、

必死に守ってきた家が物理的に壊れてしまうという不安からヒステリックになっていたのだと考えられる。

 

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父に一通り怒りをぶつけた後、母は自室に帰り、布団にくるまって丸くなりながら、「お家壊れちゃったああああぁ、お家、お家壊れちゃうようおおぉぉ」と泣き叫んでいた。

 

近くによって背中をさすろうとしたが、「触らないで!来ないでえええぇ」というので、ただ近くにいることしかできなかった。

 

とりあえずトイレの水を拭いたり、一階トイレの水が滴り落ちているところにタオルを置いたり対処をして、泣き叫ぶ母を見守っていたのを覚えている。

 

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泣き終わると落ち着いたが、私の心は大分ざわざわしていた。

それからは、いつ母のパニックが起こるか分からないという恐怖から、ほとんど深く眠れなくなった。

 

いつでも何かあったらすぐに動いてあげなければ。

 

すぐに駆け付けられるようにしていなければ。

 

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寝ていても、雨が降り出す音で起きるようになった。

完全に不眠症だった。

 

母はその後心療内科に通いだした。

薬を服用して、気持ちを落ち着けるようにしていた。

 

心療内科から、「旦那さんを連れてきてください」と言われたこともあったそうだが、状況は大して変わらなかったことしか覚えていない。

 

 

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介護疲れで鬱になった時、母が私にかけた衝撃的な言葉

★介護疲れから鬱になった高校3年生

母方の祖父が亡くなった。

 

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母のメンタルが回復してきたころ、私はうつ状態になった。

学校に行くことも、ご飯を食べることも、トイレに行くことも、目玉を動かすことさえ面倒くさくなっていた。

毎日リビングの窓際に座って窓に寄りかかりながら、庭の木を眺めている一日だった。

 

何も思わなかった。

学校に行かなきゃとも、何かしなくては、とも。

ただただ全てが面倒くさかった。

今日を生きていることが、億劫だった。

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そうして毎日ただ木を眺め続けていたある日、母が私の隣で泣き出した。

 

ごめんねえ。

まこちゃんがこんな風になっちゃったのはお母さんのせいだよね。

こんなお母さんでごめんね。」

 

 

木を眺める娘の隣で母が泣くという、このとてもシュールな絵面が何日か続いたとき、

「この泣いている人を泣き止ませるために私は学校に行かなければならない。」

と思うようになった。

 

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やっと体が動いて、学校に復帰することができた。

クラスに行ったとき、クラス内は受験一色で、みんな休み時間も勉強しているような環境だったので、逆に馴染みやすかった。

タイミングに感謝。

 

母のおかげで学校に復帰できたし、国公立の大学にも無事に合格できた。

 

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だけど、もう少しきちんと自分に向き合って、気持ちを整理して、十分エネルギーを補充してから動き出しても良かったんじゃないかな、と今は思える。

そういう時間も大事だと思えるようになった。

 

というか、今も欲しい。

追われる生活ではなく、何かを追う生活の中で、

自分と向き合う時間をきちんと作り出してあげられる生活がしたい。

 

ほんの少し、人生をお休みする時間を定期的に作ってあげる。

 

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★鬱になる前に気付いてくれた人は保健室の先生

うつ状態になる前だったのか後だったのかは正確に覚えていないが、

「お腹が痛い」

といって保健室に行くことがよくあった。

授業中でも耐えられないほどのキリキリとした痛みで、トイレに行っても便が出るわけでもなくつらかったのを覚えている。

 

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保健室の先生に家庭生活のことを聞かれた。

まあいいかと思って、すべて話した。

 

カウンセリングを勧められた。

 

なぜかこの先生のことも、話した内容のことも、何も覚えていない。

カウンセリングに通っていたことだけは覚えているのだが。

不思議。

 

 

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それだけ当時の私にとってつらい状況で、

忘れなければ生きていけなかったのだと思う。

 

 

 

 

次回は、、、「母がパニック障害になった結果、新たに私に覆いかぶさった○○障害」

 

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高校3年で祖父が死にさらに心の闇が広がった結果…

 

ブラック企業にいるかのような生活を送った日々

高校3年生の時、母方の祖父が亡くなった。

亡くなる半年前ぐらいから、母が祖父の介護等で家を空けることが多かった

帰ってこない日も時々あった。

 

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家事は私がやらざるを得ない状況だった。

父も兄も何もやらないので、掃除洗濯ご飯すべてやっていた。

 

当時私は受験期の高校3年生で、特進クラス。

国公立大学に入って親を安心させたいという気持ちから、どんなに調子の悪い時でも、常に学年10位以内はキープしていた。

度重なる模試や定期試験の勉強も頑張っていた。

 

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部活は吹奏楽に所属していた。

祖父の介護が始まったのは、吹奏楽部が命を懸けて挑戦するコンクールの時期だった。

朝練もあり、平日も土日も遅くまで練習していた。

パートリーダーだったため、練習でも合奏でも手を抜くことはできなかった。

 

この頃の生活は今でも思い出せないほど目まぐるしかった。

 

 

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朝4時半頃起きて、シャワーを浴びる。

自分のお弁当を作りながら家族の朝ご飯を作る。

家の雨戸を開けながら家族を起こしに行く。

 

朝練に出掛ける。

授業を終えると8時近くまで部活。

部活が終わって8時半ころ帰宅すると洗濯を始めて、その間に夕飯を作る

洗濯が終わるまでに食べ終えて、洗濯物を干す。

洗濯干しが終わったら、

9時10時から受験勉強を始めて夜中の2時ころまでやって寝る。

 

 

こんな生活が18歳で半年も続いた。

 

 

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いつ寝ていたのだろうと不思議に思うが、そういえばどんなに短い休み時間でも全力で寝ていた気がする。

 

忙しすぎて、疲れたとか、辛いとかの感情は一切なかった。

 

ただ、一度だけ部活のパート練でキレたことがあった。

いつもみんなでふざけているパート練が突然うっとおしく感じた。

時間を有効に使わない仲間が許せなかった。

「練習やる気ないなら私帰っていい?」と。

いつも絶対怒らない私がキレたので固まっていたのを覚えている。

皆に対してほんとごめんと思いながらその後トイレで一人泣いて、何事もなかったかのように合奏に参加した。

 

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★ここでやっと救済の手がのびてくる

 

ある日、高校で三者面談があった。

母と私と担任の3人だった。

私の勉強状況の報告や受験に関する担任の見解などの話が終わると、担任が思わぬことを口にした。

 

「最近やつれた?」

「寝てる?」

「ご家庭で最近何かありましたか?」

 

私は何も答えられなかった。

相変わらず、母にとって1ミリでも不利になることは何も言いたくなかった。

 

母が担任の質問に答えた。

 

「最近私の父が亡くなったので、この子が家事をやってくれていますね。」

 

その時やっと自分が疲れていることを認知できたように思う。

 

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確かにその頃の写真を見ると、足と手がものすごく細いのにお腹が出ていた。

不思議な体型だったが、自分では「お腹が出ているから私はまだ太い」という固定概念を持っていた。

 

あ、そうだ。その頃あまりたくさん食べられなかった。

たくさん食べなくても、お腹がすかなかった。

なんでだろう、、、?

 

担任が気付いてくれなかったら、

おそらく何も感じることなくストレスだけが溜まっていっていた。

 

 

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高校3年の時の担任には本当に感謝している。

 

 

次回は、、、「介護疲れで鬱になった時、母が私にかけた衝撃的な言葉」