【自己紹介】鬱病だった私が26歳で心理カウンセラーになるまでのお話
ブログを書いてみようと思ったのですが、なんのテーマも思いつかないので、自己紹介をします。
26歳で心理カウンセラーになりました。
1番ラフな私の姿です。
ちなみにペットもいっぱいいます。
今までの人生を全部書いてしまうと、あまりにも長くなるので、心理カウンセラーに関連することメインでざっくり書きたいと思います。
ざっくりって言ったのに目次だけで膨大(;'∀')
■こんな人に読んでほしい
- 私の自己紹介に付き合ってくれる優しい人
- 人生十分頑張ってきたから「もういっかな」と感じている人
- カウンセリングって意味あるの?って人
- 私にカウンセリングをしてほしいけどどんな人か知っておきたい人
■まずは人生をざっくり
幼稚園 父親の起こした交通事故による家庭崩壊
小学校 家庭内DVの目撃
中学校 特定の女子軍団からのいじめ
大学 父との死別
大学院 うつ病が発覚
仕事 教員の業務過多で双極性障害
セルフカウンセリングに興味をもつ
カウンセラーの資格を取得
今 大人を対象に心理カウンセリングを実施
■幼稚園時代
父親の起こした交通事故による家庭崩壊
私の逆境的体験はここから始まります。
父親が裁判になる大きな事故を起こしました。
当時の私はこのことを覚えているわけもなく、父との死別の後、母から聞かされることになります。
父は事故の後、アルコール中毒になりました。
母はそんな父を支えようと必死だったそうです。
母の目は子どもには向いていなかったと記憶しています。
アルコール中毒になった父親
母曰く、仕事にもお酒を飲んで行っていたのではないか。とのことでした。
父のアルコール依存はかなりひどかったと思います。
家の玄関やリビングで、暴れて暴言を吐いてその場で寝ている父親の姿が、今も脳裏に焼き付いています。
特に母親に対する暴言がひどかったです。
「おいデブ!豚!」
「だからお前はみんなから嫌われるんだ」
家の中はこんな暴言の嵐でした。
ヒステリックな母親
ただ、母親も負けていません。
父親と言い合いになると、決まって部屋にこもって泣き叫びます。
我が家は暴言と泣き声で溢れていました。
母親は過敏なところがあり、自分の予定通りに行かないとパニックになることがよくありました。
私は母親の気分を害さないように日々を生き抜いていました。
■小学校時代
DVの目撃
私が幼稚園の時だけでなく、小学校になってもDVは続いていました。
低学年の頃の私は
「お友達のみんなもこんな家庭なんだろうな」
「みんな普通に生きているように見せることが出来ていてすごいな」
と思っていました。
中学年になった頃、お友達の家に行くことが多くなりました。
そこで「あ、うちの両親普通じゃないんだ…」と気付きます。
高学年になった頃には母親に「辛かったらお父さんと別れてもいいよ」と伝えていました。
それでも父親と一緒に居るという選択をする母親に、私はずっと疑問を抱いていました。
リストカットの開始
ここでリストカットが始まります。
最初は「包丁で手首を切ればこの苦しい状況からいなくなれるのかな…」と思って始めました。
それが段々と”胸のあたりが黒くモヤモヤしてきたら切ればいいや”というように、私のストレス対処法になっていきました。
リストカットをしていた理由は2つあったように思います。
1つ目は「わたしは生きている」と実感できるから。
喧嘩に必死になっている両親の目は私には向きません。
「あれ?私って今ここにいるよね…?」と不安になることが度々ありました。
そんな時に、自分の血を見ることで安心できたのです。
2つ目は「痛みで黒いモヤモヤを忘れられるから」。
痛みほど自分の脳みそをパンパンにしてくれるものは無かったのです。
リストカットが始まってからは、筆箱やランドセルにカッターが入っていないと、落ち着かない状態になっていました。
■中学校時代
特定の女子軍団からのいじめ
ある日学校に行ったら突然始まっていたのです。
今思えば私の言動に問題があった部分もあると思います。
ただ、中学生の私にはそんなことがわかりませんでした。
目の前で悪口を言われて味方も誰一人いない日々。
部活は一生懸命やっていましたが、授業は段々サボるようになっていきました。
クラスにもクラス外にも話す人はいないし、学校に行く意味も分からなくなっていました。
この時期からガラの良くない先輩や同級生と、つるむようになります。
成績も落ちるし、問題行動も多くて、毎週先生に呼び出される日々。
登校で歩けないほどの体調不良
これもある日突然のことでした。
全身湿疹が出ました。
急いで病院に行くと、
「体育は絶対やっちゃダメ。」
「登校で歩いたら死ぬと思いなさい。」
「学校は必ず車の送り迎えで。」
と言われました。
その時に「あ、やっと死ねる…?」とふと頭をよぎったのは明確に覚えています。
いじめや家庭のストレスも溜まっていたのでしょう。
それが体にまで影響して体調を崩すことが多くなりました。
■家事・部活・受験による鬱状態で不登校
アンバランスな中学時代を過ごした私は、地元の進学校に進みます。
進学校の特別クラスだったので、校内で上位20%に入るのは当たり前でした。
部活もある程度、実績のある学校だったので朝練から夜練まで必死でした。
そんな時、母方の祖父が倒れます。
母は祖父の介護で家を頻繁に空けるようになりました。
父はアルコール中毒。
料理・掃除・洗濯・父の尻拭い、これら全部私の分担になりました。
そんな時、転機が訪れます。
3者面談で担任の先生が「最近この子やつれましたよね?」と母親に言ってくれたのです。
そこで初めて母親の目がこちらに向いたのを覚えています。
その後「私つかれてたんだ…」と認識してからは、トイレに行くのも布団から起き上がるのもおっくうになって、当然学校にも行けなくなりました。
母は、ぼーっと庭を眺める私の横でずっと泣いていました。
「あなたがこんなんなっちゃったのは私のせいだよねぇ…」
「ごめんね、ごめんねぇ…」
と言っていたのは何となく覚えています。
しばらくして私は担任の先生への感謝を感じ始め、学校の先生を目指そうと決めます。
■高校時代
母のパニック障害
学校の先生を目指すと決めたからといって、家庭の状態が変化することはありません。
父のアルコール中毒は、時が経つにつれて段々ひどくなっていました。
ある日、父がトイレにお酒のパックを流してトイレを詰まらせました。
トイレ付近の床が水浸しになったことに気づいた母が激怒。
母はひとしきり父に暴言を吐いた後、布団にこもって何かぶつぶつと言いながら泣いていました。
「おうち壊れちゃう…壊れちゃったよぉ…」
「あぁー…私のせいだよぉ…」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」
高校生の私にとってはあまりにショックな絵図でした。
母の肩をさすろうとしても、過敏になっている母は私の手を振り払いました。
1時間弱、泣き続ける母から少し遠い所で見守り続けるしか、なすすべはありませんでした。
それからは私はいつ父が何を起こしてもフォローできるように、母がパニックになっても見守れるように、と思うようになり、雨の音でも起きるようになりました。
父との死別
大学に入ってすぐ、父が肝硬変で亡くなりました。
最後に会ったときは私のことが分からなくなっていましたが、看取ることは出来ました。
ただ、父が亡くなって私が思ったことはひとつ。
「やっと解放される…。」
不謹慎だと思われるかもしれませんが、もう母も私も疲弊していました。
やっと心配の種が一つ無くなってくれるなぁ…と考えながらの葬式でした。
父との関係回復(死後ですが)については、また詳しく書こうと思います。
今は素直に「悲しいな。」と思えています。
■大学時代
過度なバイト量で過食嘔吐
父が亡くなって、母もある程度回復してきたあたりで、私は一人暮らしをする決心をします。
当時は、実家にいる時間帯だけ突発性難聴になっていたので「もう十分頑張ったしこんなに身体にも症状が出ているなら解放されたい」という思いが強くありました。
私は、「お金は一切要らないから」と言って、すがりつく母を置いて家を出ました。
結果、生活費と大学の授業料に追い込まれることになります。
休日と夜は結婚式場と飲食店でアルバイトをし、昼は大学の授業に出る生活でした。
あまりに過酷なスケジュールにストレスは溜まるばかりでした。
気付いたら、過食嘔吐が始まっていました。
アルバイトの帰りにコンビニに寄って、3000円分ぐらいのお弁当屋お菓子を買い漁って、食べて、トイレに行って、口に指を突っ込んで吐く。
これが習慣になっていました。
生活リズムが崩れた結果の不眠症
アルバイト三昧の日々を過ごしていたら、眠くて眠くてしょうがないのに眠れなくなっていました。
「さすがにこのままじゃ生活が成り立たない」と思い、心療内科に行きました。
心療内科では
「不眠症ですね」
「幼少期から深く眠る習慣がなかったのかもしれないねぇ」
と言われて睡眠薬と漢方を出されました。
これで寝れるようになるならなんでもいいや、という気持ちで日々に追われていたのでこのころの記憶はあまりありません…。
■大学院時代
うつ病が発覚
大学では教員免許を取り、大学院では子どもの心理学を研究していました。
研究自体は自分にも当てはまることがあるなぁという発見が多かったり、学校の先生になったら生かせるかも!という期待感があって楽しく過ごしていました。
しかし、なぜかは分からないのですが、突然家を出れなくなってしまいました。
布団を出るのもトイレに行くのもおっくう。
あまりにも出来なさすぎて、こんな表を作ったこともあります。
【起きたらやること】
①布団を出る
②歯磨きをする
③髪の毛を整える …
そしてこの表を作ったことが、見事に逆効果でした。
「こんなに普通のこともできない私はなんてだめなんだろう…」と負のスパイラルにハマってしまいました。
にっちもさっちもいかなくなって、心療内科で相談したところ「うつ病です」と伝えられました。
それからはぎりぎり休学しない程度に単位を取って、自力で回復しました。
虐待を受けた子どもの心理を研究
DVも虐待に含まれることを知り、虐待を受けた子どもの心理を知りたくて大学院に進みました。
と同時に、学校の先生になった時に、虐待を受けている子どもにどう接すればよいのか学びたかったという気持ちもありました。
研究では、虐待を受けた子どもがいる施設の教員へのインタビューを行っていました。
その結果、トラウマをもつ人に接するときの心構えとして”トラウマインフォームドケア”の視点が重要なのではないかと感じました。
”トラウマインフォームドケア”とは、支援する多くの人たちがトラウマに関する知識や対応を身につけ、普段支援している人たちに「トラウマがあるかもしれない」という観点をもって対応する支援の枠組みのことです。
虐待を受けていようが受けていなかろうが、この「トラウマがあるかもしれない」という視点が大事だと気づくことが出来ました。
自分自身の幼少期の心理状況についても、大学院である程度理解することが出来たように思います。
■仕事
教員の業務過多で双極性障害
ついに念願の学校の先生になりました。
関わりの合った人たち全員から「学校の先生は大変だよ」と言われていたので、覚悟はしていたのですが、中々業務に慣れることが出来ませんでした。
元々、
「虐待を受けている子がいたら気付いてあげたい」
「発達の子も過ごしやすい環境を作りたい」
「トラウマを抱えている子どもには安全な場を提供したい」
という思いが強すぎたので、なにもかも完璧にやろうとして基礎的な業務がおろそかになってしまっていたのです。
そして段々と遅刻が多くなり、欠席することも増えてきて、休職に至りました。
心療内科には通っていたので「仕事に行けてないです」と相談したところ、今度は「双極性障害ですね」と伝えられました。
セルフカウンセリングに興味をもつ
今の自分の心理状況を把握するために、自分で自分に行う”セルフカウンセリング”に興味を持ち始めます。
休職してからずっと寝たきりでしたが、少し動けるようになってきてから、カウンセリングを受けたいなーと漠然と思っていました。
そしてタイミングよく、久々に電話した後輩から「認知行動療法いいっすよ」と言われました。
そこで、認知行動療法の本を読んでみて自分で実践してみました。
最初は「にんちってなに?」というのが分からず、つまずいてしまいました。
認知を理解するために、大学院時代の恩師(私は勝手に恩師だと思っています)に指導してもらいながら、認知行動療法を使うことが出来るようになってきました。
※認知行動療法とは、困っている時の状況や感情を把握し、自分の考え方のクセを見つけていく方法です。
それからは基本的に、悩んだら認知行動療法の手法でセルフカウンセリングをしています。
カウンセリングの資格を取得
通信教材で基礎的な部分を勉強し、心理カウンセラーの資格を取得しました。
その後は学会や研修会に参加したり、自分で文献を読んだりして学んでいます。
認知行動療法以外にも使える引き出しを増やしたいと思い、様々な手法を身に着けてきました。
■今
大人を対象に心理カウンセリングを実施
現在は、成人した方を中心にカウンセリング業務をおこなっています。
相談者さんは問題解決したい方や、ただ話を聴いてほしい方など様々な方がいらっしゃいます。
基本的な私のスタンスは”共に歩む”です。
相談者さんに孤独感を感じてほしくない。
隣にいるよって安心してほしい。
だから、私のカウンセリングでは一緒に考えたり、一緒に作業したりして進めています。
もし私のカウンセリングに興味があればサイトも一旦見てみてください
■最後に
ここまで読んでくれてありがとうございます。
私の人生を綴らせていただいたことで、忘れていた感情を思い出したりすることが出来ました。
今回は「なんか家庭が大変でカウンセラーになった人」と覚えてもらえたら嬉しいです。
ちなみにうちのニワトリは私が困っていたり泣いていると近寄ってきてくれます。
かわいいです。