毒親によって愛着障害になり学校でいじめの主犯になった話
★母と上手に築けなかった愛情
昔からほぼ毎日悪夢を見ていたため、夜中起きることもあれば、いったん起きると夢の続きを見たくなくて眠れないこともよくあった。
眠れない日が続いて、母の隣で寝たいと言ったことがある。
しかし「あんたと寝ると悪いものが寄ってくるから嫌なのよ!一人で寝なさい」と言われ、自室へ追い返されてしまった。
母の部屋の前にある廊下で、タオルケット一枚で泣きながら寝ることもよくあった。
母は第6感が優れており、心霊現象が起きやすい人であった。さらに、私と一緒に寝たときは必ず嫌な霊が寄ってくるのだと言っていた。
それはしょうがないことだとわかってはいた。頭では理解できていた。
しかし、心の中では整理がつかないことも多くあった。
母は余裕がないことが多く、また私が甘えん坊だったこともあり、話しかけても「話しかけないで」と言われたり、肌が触れたりすると振り払うことがあった。
肌が触れると基本振り払われていた。末端冷え性も嫌だったみたいだ。
心理的ネグレクトと言っても過言ではない状況だった。
何にもしてくれなかったとは言わない。頑張ってくれているのも分かったから。
でも、子どもとしては、ただ抱きしめてほしかった。ただ「そっか、つらいね」と言ってほしかった。
母がよく口にしていた言葉は、今でも鮮明に覚えている。
「あんたは人を嫌な気持ちにさせることしかできない!」
「人に迷惑ばっかりかける」
「好むと好まざるに関わらず私はあんたに振り回されている」
「いつからそんな子になったの?」
「その目は何?その反抗的な目は。」
「私の言うことは何でも聞きたくないんだもんね。」
その通りなのだなあ、と受け入れるしか方法を知らなかった。
「こんな娘でごめん、産まれてきてごめん。」
「お母さんを嫌な気持ちにしかできなくてごめん。」
「嫌われるようなことしかできなくてごめん。」
「嫌われたいわけじゃないのにどうしてうまく出来ないのだろう」
「こんな子嫌いになって当然だよね。」
「消えたい。」
「お母さんは私が死んだら悲しむだろうけど、私ももう頑張れない。お母さんが分からない。」
お母さんのことが好きだった。すごく。
抱きしめてほしかった。
どうすればお母さんに好きになってもらえるのかずっと考えながら生活していた。
いい子でいなくては。
勉強ができなければ。お友達と仲良くしなければ。
先生に好かれなくては。
★「いじめの加害者」
家庭環境による眠れない日が続く中、私は学校生活でも荒れだした。
小学校5年生のころ、同じ学級に軽い発達障害の女の子がいた。
私は成績もそこそこで、学級委員をやるタイプだったためか、彼女の面倒を見てあげる機会が多かった。
それが実際ストレスだった。
「あの子がすると褒められることが、なぜ私がすると褒めてもらえないのだろう?」
と常に不思議であった。
ある日、私は彼女のお絵描き帳を盗んだ。
私がもともと持っていた葛藤に気づいてくれることもなく、指導は終わった。
悔しかった。
私がものすごく努力して出来たことでも、すでにできる子のレッテルがあるから、出来て当然だった。
私にとっては周りのみんなが普通にできることが難なく出来ないことが多かった。
難なく出来ているように見せるので必死だったように思う。
その頃の目標は「君って幸せそうだし悩みもなさそうだよね」と言われることだった。
次回は、、、「上手く行かない友人関係から始まったリストカット」
DVの目撃によって小学校時代が夜の生活が…
★家庭内DVの目撃
両親は毎日大きな声で喧嘩をしており、私は毎朝喧嘩の声で起床し、下校して家の前に来て喧嘩の声を聞きながら、だれにも聞こえないであろう「ただいま」を言って家に入る。
玄関の前で足が止まってしまい、立ち尽くすこともままあった。
夕飯の邪魔をしてはならないので、呼ばれるまで静かにしている。
呼ばれたら、下へ降りていき、準備を手伝う。
夕飯の中盤から両親に不穏な空気が流れ始める。
食後父が母を攻め、母が泣き崩れるといういつもの喧嘩が始まる。
見たくないので、自室で待機しつつ、喧嘩の声を聞きながら眠りにつく。
ここでは「見たくない、逃げたい」という気持ちと「助けなきゃ」というジレンマにより、自分自身の中で膨大な自責の念を作り上げていた。
その場に一緒にいてあげられないことが母に対して逃げているように思えた。
しかしその場に残って口出しをすれば、「子どもが口出しするんじゃない」と叱責された。
★眠れなくて朝日を迎える恐怖
兄を拒絶できるようになったのは成長だったと思う。しかし、今度は深く眠れなくなってしまった。兄がいつ私の部屋に来るのか不安で仕方がないため、ぐっすり寝ている場合ではなかった。
また。ハマり症だったのもあり、気に入った漫画は夜中3時ころまで止められずに読んでいることもしばしばあった。
両親は1階で絶え間なく喧嘩しており、2階の様子など気にも留めていなかった。
自分がここに存在しているのかも分からないほどに。
次回は、、、「母親との悲しい愛着問題」
幼少期の父の荒れ果てた姿
★「父が起こした交通事故」
私が5歳の時、父が交通事故を起こした。
相手の方は、亡くなってしまった。
両親は彼らの実家や、被害者のご家族の方に挨拶にいった。
この事故を通して家族の関係性が崩壊に向かっていった
父は元々大酒飲みで、ヘビースモーカーで、ギャンブルも大好きであった。
交通事故が起きてから、父の悪い癖がさらに顕著になった。
父はしばらく車にも乗らなかったし、相当な罪悪感に苛まれていたのだと思う。
相手の方が亡くなったこともあり、サバイバーズギルトに陥ったと考えられる。
★「両親の不仲」
私が小学校に入った頃、母と父は声を荒げて喧嘩していた。
母は布団にうずくまって大声で泣いていた
丸くなって誰もを拒絶するような母の姿はとても鮮明な記憶として残されており、今でも思い出すと大きな不安に駆られる。
父の母に対する言葉の暴力は頻繁にあった
父は母に「お前は親戚中みんなから嫌われている」「ぶた」「でぶ」と毎回言っていた
兄は両親の喧嘩に対して知らぬ存ぜぬだった
私は家族で頼れる人がいなかったが、兄だけはよく面倒を見てくれていた。
お互い何でも言える関係であり、恋愛の話などもよくしていた。
両親喧嘩がヒートアップしたとき、「荷物まとめて祖母の家に避難してきな」と言うような妹想いの優しい兄だった。
次回は
「幼少期の後何が起きたのか、、、、。」
飛び降り自殺に失敗したから過去を全て世に出そうと思う。
今週のお題「爆発」
私の爆発は「フラッシュバックで感情爆発した末飛び降り」
飛び降り自殺をした経緯
簡単に説明します、
現実逃避のために飛び降り自殺」
②アル中
③壮絶な過去
この3つが重なって
フラッシュバックを起こし、
発作的に自宅の3階から飛び降りました。
自殺に失敗した後
飛び降りた先はコンクリート。
奇跡的に
手と足の単純骨折、
全身の擦り傷、
軽い打撲で済みました。
「なんで死なせてくれなかったんだろう」
骨折の手術が終わりまず思い浮かんだ言葉。
なんで逃げさせてくれないのだろう。
なんでこんなに苦しまなきゃいけないのだろう。
なんで、、、
毎晩毎晩泣きながら朝日を迎えました。
壮絶な過去を25年間生きてきた自分とのさよなら
術後のリハビリも終わり、
完治が近づいた今、
思いました。
「そうだ。今までの過去を供養しよ。」
これからブログで綴ることは汚い自分
25年間を供養するために、
このブログを開設しました。
誤解の無いよう伝えておきますが、
このブログは自殺を企図するものでも
自殺を促すものでもありません。
同じようなつらい思いをしている人が
「私だけじゃないのか、、、」
と思えるためのもの。
そして私自身が過去を整理するためのもの。
「壮絶な過去」と記している通り、
人によっては不快になる表現もあるかと思いますが
寛容な心で見守っていただけると幸いです。
次回、、、「幼少期のトラウマ」